鎌倉時代から臥牛山(がぎゅうざん)に築城された備中松山城。
代々の城主の手で発展を遂げた城の歴史を、
さまざまな角度から紹介します。
国内唯一の現存する山城
備中松山城は、高梁市市街地の北端に位置する標高約480mの臥牛山(がぎゅうざん)にあります。
全国には天守が残る城が12城ありますが、その中で「山城」の形態をとるのは備中松山城のみで、国内唯一の現存する山城として、広く知られています。
木造の天守とともに、二重櫓(やぐら)、土塀の一部も現存し、昭和16(1941)年に国の重要文化財に指定されています。
平成9(1997)年には本丸南御門をはじめ、東御門、腕木(うでぎ)御門、路地(ろじ)門、五の平櫓(ひらやぐら)、六の平櫓、土塀などが復元されました。傷みが進んだ天守も平成15(2003)年に保存修理が行われ、往時の姿を今に伝えています。
牛の形の「おしろやま」
高梁市民から「おしろやま」の愛称で親しまれている臥牛山(がぎゅうざん)。
北から大松山(おおまつやま)、天神の丸(てんじんのまる)、小松山(こまつやま)、前山(まえやま)の4つの峰からなります。
西から見た姿は、草の上に伏せた老牛の姿に似ていることから、臥牛山または老牛伏草山(ろうぎゅうふくそうざん)と呼ばれるようになりました。
鎌倉時代には臥牛山の大松山(一番北の峰)へ砦が築かれ、時代と共に臥牛山全域に広がっていきます。
現在一般的に「備中松山城」と呼ばれているのは小松山(標高約430m)の山頂に残る天守です。
長い歴史の中で「戦のための中世城郭」から、「天守や石垣を備えた近世城郭」へと役割が変化したことが伺えます。
戦国時代は山全体が一大要塞に
備中松山城の歴史が始まったのは鎌倉時代。延応(えんおう)2(1240)年に有漢郷(うかんごう)(現在の高梁市有漢町)の地頭に任ぜられた秋庭三郎重信が、大松山に砦を築きました。
その後、城の中心は小松山の峰に移り、城の縄張りも時代とともに変化。天正2(1574)年に起こった「備中兵乱(びっちゅうへいらん)」の際には、臥牛山の周辺には21もの砦が築かれたとされます。
この兵乱の際の城主は三村元親。臥牛山全域におよぶ一大要塞を形成していた三村氏でしたが、毛利軍8万の兵による兵糧攻めで落城したといわれます。
天正3(1575)年、三村氏に代わり城主になったのが毛利輝元。備中松山城は、毛利氏の東方進出の拠点となり、備中では織田勢との勢力争いが繰り広げられました。
毛利氏が関ヶ原の戦いで破れて防長二国に退き、江戸時代となってからも備中国奉行として赴任していた小堀正次、政一(遠州)父子により修改築が行われるなど、備中松山城は備中の要衝としての役割を担っていたことが分かります。
築城家・作庭家の小堀遠州が奉行に
慶長5 (1600) 年の関ヶ原の戦いの後、備中松山城は徳川幕府の支配下に。
幕府の命により、小堀正次・政一(遠州)父子が奉行として赴任しました。
築城の名手として知られる遠州は山麓に陣屋(御根小屋)と、山上の城郭の改修に着手したと伝えられています。
遠州は作庭の名手でもあり、備中兵乱で荒れ果てた城の代わりに頼久寺を仮の館として政務を行いましたが、その時に庭園を作庭しました。
国の名勝に指定された「鶴亀の庭」は、禅院式枯山水蓬莱(ぜんいんしきかれさんすいほうらい)庭園。
愛宕山(あたごやま)を借景(しゃっけい)に、白い砂で海の波を表現し、鶴島と亀島の石組みを配しています。
大海の波を表すサツキの大刈込みも見事です。
水谷三代の治世
寛永(かんえい)19(1642)年、常陸下館から成羽藩を経て水谷勝隆が城主となると、高瀬舟路や玉島新田の開発など、藩政の確立に意を注ぎました。その子、勝宗は高瀬通しの開削に努め、天和元(1681)年から同3年にかけて備中松山城の大修築を行います。この時に天守と共に、二重櫓や大手門などが建てられ、城の全容が完成しました。現在、国指定重要文化財として残る備中松山城の天守、二重櫓、三平櫓東土塀はこ時に作られたものです。
播州赤穂の大石内蔵助が城代に
寛永19(1642)年から城主となった水谷氏は、城下の町割や城の修築などで藩の基礎を整備したものの、三代で跡継ぎがなくなり断絶。
元禄7(1694)年、次に城を預かったのは、播州赤穂の浅野氏でした。断絶した水谷家から城の受け取りを担ったのが忠臣蔵で知られる大石内蔵助。
備中松山藩家老の鶴見内蔵助との話し合いにより、無血開城に成功しました。
この時の会合は「二人内蔵助会議」として後世に語り継がれています。大石内蔵助はその後約1年間、城代として備中松山城に滞在しました。
麓から城へと登る道には大石内蔵助腰掛石と呼ばれる石があり、その場所で休憩したと伝えられています。
財政破綻を救った山田方谷の藩政改革
幕末に徳川慶喜を補佐した、備中松山藩主・板倉勝静。その勝静に仕えた漢学者・山田方谷(ほうこく)は藩政改革を断行し、財政破綻寸前だった藩を救いました。
嘉永3(1850)年当時、備中松山藩の借金は10万両(現在の貨幣価値で300億円相当)。
46歳の方谷は、武士から庶民まで全員で節約する「上下倹約」に加え、負債整理や産業振興、さらには藩札の刷新などの政策を実施。わずか7年で借金をゼロにし、さらに10万両の蓄財を残しました。
方谷は教育者としても手腕を発揮し、藩校・有終館や、方谷が設立した私塾、明治以降には備前の閑谷精舎(しずたにしょうしゃ)(現在の閑谷学校)で多くの若者を指導。方谷の思想や手法、さらに育成した人材が、次世代に大きな財産として残されました。
無血開城、廃城令を乗り越えて
慶応4(1868)年に戊辰戦争が始まり、江戸幕府と薩摩・長州藩などの明治新政府軍が戦いました。
江戸幕府で老中を務めていた板倉氏は朝敵(朝廷・天皇の敵)とみなされ、備中松山藩は危機的状況に。山田方谷らは「無謀な戦いを避け、藩の存続を図るしかない」と無血開城を決断し、新政府軍に降伏。この決断により城も守られました。
明治6(1873)年に廃城令が出され、全国の多くの城で天守や建物が取り壊されました。備中松山藩も例外ではなく、山の麓にあった御根小屋(藩主の居宅)は破壊され、岡山県立高梁中学校の用地に。
しかし、天守や櫓(やぐら)、門などは不便な山の上にあったことが幸いし、そのまま放置されて後世に伝えられました。
市民の熱意でよみがえった天守
明治、大正、昭和と時は流れ、備中松山城の櫓(やぐら)は損壊し、荒廃していました。
昭和初期に、崩壊寸前だった城を救ったのが高梁中学校の歴史教諭・信野友春。城の歴史的価値を知る信野は、何度も登山して測量を行い、天守の構造や寸法などの詳細な記録を集めて『備中松山城及其城下』を発刊しました。
この本がきっかけとなり、地元住民が城の修復に向けて「高梁保勝会」を結成。
昭和14(1939)年に「昭和の大改修」によって天守の解体修理と土塀の補修が行われました。
その際、地元の小学生や中学生、女学生などが約2万枚もの瓦を山頂まで担いで上がったというエピソードが残っています。